hittyのブログ

ちょっと調子の悪いオヤジのネット起業奮戦記

第六感を磨いた日本人?!

ご来訪いただき、ありがとうございます!


きのう、エキスパのセミナーで、

知り合った人のブログやフェイスブックを

訪れてみました。


それぞれに発想が面白いなあ、と

思いました。

SNSで友達になった人もいます。

みんなで励まし合って、

頑張って行きたいなあ…。



ところで、話は全く変わるのですが、

江戸時代に「六を磨く」という

寺小屋の授業があったそうなんです。


アメブロの方で、そんな記事を

見つけて、少し調べてみました。


第六感の感性を磨く授業で、

今で言うところの、

スピリチュアル系の授業です。


その記事を読んで、自分なりに考えたことを

少し、書いてみようと思います。




私は、井沢元彦さんの作品が好きです。


彼の

「GEN」『源氏物語』秘録

という、小説は、一気に読むほど

面白い作品です。


ある家に代々伝わる源氏物語は

従来の54帖のものとは異なり、17帖しか

ないという。これは「原・源氏物語」で

あろうか?

この話を追いかけるのは角川源義。

角川書店の設立者です。

本当に、一読の価値があります。


「卑弥呼伝説」

これも歴史が好きだったら、たまらない

面白さなんです。

神話の時代に関する現在の常識が、

間違いなく、ひっくり返されます。


上記2冊は、歴史があまり好きじゃない人

でも、楽しんで読める2冊です。

ミステリー仕立てなので、グイグイ

引き込まれます。



でも、それ以上に、井沢元彦の真骨頂は、

「逆説の日本史」シリーズです。


このシリーズの

1、古代黎明編

2、古代怨霊編

3、古代言霊編

という3冊を読むと、むかしの日本人の

基本的な考え方がわかります。


これを読むと、勅撰和歌集は、

文化史で扱うべきものではないことが

ハッキリと分かります。


この和歌集の編纂こそが、当時の

政治そのものであった、という

結論になります。


日本は古来から言霊信仰とでも

言うべき世界で生きて来ました。


怨霊が暴れると、みんなが

それを恐れました。


たぶん、都を移すような大事業が

怨霊の所為だ、と言ったら、

今の世の中の人は、まったく

バ○げている、と思うでしょう。


でも、その時代の人は、みんな

それがわかっていたから、

遷都にも従っていたのではないか

と、推測できます。


政治のコトを「まつりごと」と言います。

これは、政治の重要なコトは、怨霊を

「まつる」(祀る)ことだったからです。

日本とは、そういう国だったのです。


現在でも、天皇家の国事行為には

伊勢神宮への参拝や、儀式として

国民の代わりに神事を行うしきたりが

残っています。


では、なぜ、そういう国民が、

そんなことはあり得ないと思うように

なったのか?


江戸時代までは、ヤマトの国から

ずーっと続いて来た伝統は

活きていました。


考え方が根っこから変わったのは

明治維新です。


特に坂本龍馬が推し進めた唯物史観の導入

です。これによって、霊的存在は否定して

すべてのものには、原因と結果が

あるだけで、霊的なものや、神の存在は

否定する、豊かさの欠如は労働によって

払拭する以外にはない時代が到来した

のです。


ただ、坂本龍馬を全否定する気も

ありません。


彼の唯物史観がみんなに

受け入れられたのは、

第2次世界大戦後でしょう。


その後の高度経済成長は、

唯物史観なしには

達成できなかったでしょう。


そういう意味では、

偉大な指導者であったことは

間違いありません。



歴史の教え方に問題がある、と

思っているのは、私だけではない、と

思います。


欧米各国は、なぜ、信仰が根強く

残っているのか?


相続財産の税制を見れば、

家宝などの、価値あるものでも

代々継承できるシステムが、

出来上がっているのが、よく

分かります。


日本は、家宝でも価値があると

認められたものは一律に課税し、

三世一身の法以来、3世代で

国が没収しやすい制度を

敷き続けています。


そして、それが実行しやすいように

唯物史観を利用しています。


日本は、歴史観がおかしい。


卑弥呼を、

魏志倭人伝に記載があるからと

証拠主義をとって、

「卑弥呼」と教える。


これは、中国の中華思想によるもので

中国以外の国は、辺境の卑しい国だという

認識があり、他の国をコケにする風潮が

有ったんです。


和人を「倭人」と書き換える国です。

大きな和、

つまり、大和の国からの使者を、

取るに足りない小さな国として、

「倭人」と呼ぶ。


陽を見る巫女、日見子か陽見子と

言われていた大和の女王を

「卑弥呼」と記述する。


本当は、日巫女、かも知れません。


彼女の悲劇は、太陽を見る巫女なのに

彼女の治世の時期に、2度、日食が

有ったことです。


彼女が日を見るようになってから、

太陽が2度もお隠れになった。


彼女に政治を任せておいたら

我々は神に見放されるかも知れない。


その恐怖が、彼女の運命を変えて行く。


そういう国民だったのです。


今は天文学の発達で、日食がいつ

どんな風に起きたか、推測できます。


上記のことは、ほぼ間違いのない

事実です。


そんな国民が、六を磨いていた。

第六感を働かせられるように、

スピリチュアルなコトを教えていた。


それを否定することはなかった

と、思うんです。


唯物史観に合わないものは切り捨てる

という考え方が嫌いなんです。


もしかすると、坂本龍馬は、そう言ったものを

切り捨てるつもりはなかったのかも知れません。


それを理解できない人間が、単純に

やりやすいように暗殺した、

というのが本当かも知れません。


聖書も、イエスの教えとは、だいぶ

違っている、という話を聞いたコトが

あります。


神の言葉を、人間は理解できない。

少なくとも、同じレベルでの理解は無理だ。


そこで、人間が理解できるように

言い換える。


だから、イエスの言ったことと、

聖書は、別物だ、というのです。


そう考えると、本来有った歴史も

その後の時代の変遷によって、

正しく伝わっているものの方が

少ないのかも知れません。


私が言いたいのは、まず、

疑問が出てきたら、自分の頭で

一度、考えてみるクセをつけてみたら

どうだろうか?という提案です。


何が正しい、とか、どう習った、とか

そんなことで決めずに、

自分が納得するまで、考えて、

調べてみるクセをつけた方が豊かに

なれるのではないか、と思うんです。


視点を変えて見る。


そうしたら、もっと笑える、

いい人生が始まるかも知れません。




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